2016年11月22日 クロアチア共和国の首都ザグレブからセルビア共和国の首都ベオグラードへ。
9:00 ザグレブ・バスターミナル発、230クルナ(3550円)。 バスのトランクに荷物を預けるのは有料なので注意です。
14:45 セルビア共和国の首都ベオグラード着。バスターミナルは鉄道駅の隣りにあり、乗車エリアと降車エリアに分かれています。
まずは宿探しです。駅の周りには安宿が多くあり、その中の駅前の古いビルの6階にある「Down Town Hostel」ドミトリー6€(700円)へ。セルビア人の長期滞在者が多い、雑然としたホステルでした。あとになって近くに4€のホステルを見つけました。
ホステルの部屋からのサヴァ川と夕日。サヴァ川は少し先でドナウ川と合流します。
「セルビア共和国」の面積は北海道位で人口は約700万人です。かっては旧ユーゴスラヴィア連邦の中心でしたが、1990年代からのの分裂で今では一共和国の存在となりました。 通貨はディナールで当時のレートは1ディナール=0.94円。
首都「ベオグラード」は旧ユーゴ時代からの首都で、バルカン半島の交通の要衝として紀元前からの歴史があります。が、幾多の紛争によって歴史的建造物はあまり残っていません。オーストリア(帝国)の影響が色濃く残るスロヴェニアやクロアチアから来ると文化の違いを感じます。言葉に表わせにくい、どこかアラブ・イスラム世界に似た雑然とした雰囲気がありました。ちなみに宗教はセルビア正教徒がほとんどで、イスラム教徒は少数です。
「カレメグダン公園」は紀元前4世紀からの要塞跡にある広い公園ですが、残っている建造物などはほとんど18世紀以降のものです。
ドナウ川とサヴァ川の合流地点。ちなみにドナウ川はドイツ南部に端を発し10か国以上を通って黒海に注いでいます。
「NATOによる空爆跡」コソヴォ紛争末期の1999年にユーゴスラヴィア連邦がNATO軍に攻撃されました。一部がそのままで残してあります。
ベオグラード寸景。
「国会議事堂」
11月24日 2泊したベオグラードからボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォに向かいます。
8:00ベオグラード発 2520ディナール(2370円)。
セルビア内ドライブインでのヤギの丸焼き。今までの中欧諸国とは文化の違いを感じます。
16:00 1時間遅れで東サラエヴォ・バスターミナル着。東バスターミナルはセルビアやボスニア・ヘルツェゴヴィナ内のセルビア人共和国地域からの専用ターミナルです。市内までトロリーバスで約30分。
「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」は1992年に独立宣言をしましたが、ユーゴスラヴィア連邦(セルビア主導)との間で悲惨な戦い(ボスニア紛争)が1995年まで続きました。主な理由はボスニャック人(イスラム教)44%、セルビア人(セルビア正教)31%、クロアチア人(カトリック)17%の複雑な民族構成です。3民族の外見や言語での差異はほとんどありません。その為に国内はボスニャック人の住むボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦地域とセルビア人が住むセルビア人共和国地域に別れていて、政治体制もこのふたつの地方政体によって構成されています。バスターミナルが行先によって別れているのはこの為です。通貨はマルカで当時のレートは1マルカ=約60円。
首都「サラエヴォ」はオスマン帝国以来商業で栄えた街でした。一部にセルビア人共和国地域があり、1992年からのボスニア紛争では悲惨な戦場となり、1万人の犠牲者が出ました。盆地状の街を包囲されての兵糧攻めや、離れたビルから狙撃される「スナイパー通り」のニュースは記憶に新しいところです。
宿は「地球の歩き方」に載っていた「ホステル・スルツェ・サラエヴォ」ドミトリー11マルカ(660円)。ここは便利な場所にありましたが、明日が満室のため1泊だけになりました。新しい宿はこのホステルが紹介してくれます。
翌日(11/25) 事件発生❗❗❗ 朝起きてサイフを見たら24€分(2800円)のマルカ札がなくなっていました。睡眠中に抜かれたと思われますが、サイフを入れたズボンは枕の下に敷いて寝ていました。トイレに行っている間にやられたのかな? サイフが返してあったのはなぜ? 当夜のドミトリーの宿泊者は少なかったです。安ホステル、特にドミトリーではままある事なので注意です。
新しいホステルへ。「Travellers Home Hostel」ドミトリー13.65マルカ(820円)。ここは前のところより少し高いですが、きれいで良かったです。なぜか日本人・アジア人が多く泊まっていました。おすすめです。
ホステルのペット猫。
「旧市街」はイスラム教、セルビア正教、カトリック、ユダヤ教など多様な宗教、民族、文化が混じり合い、中近東の雰囲気があります。写真はすべてモスクになってしまいましたか、キリスト教会やシナゴーク(ユダヤ教会)が混在しています。
水飲み場(セビリ)。
丸屋根は旧絹取引所。
職人街。
「モスク」
モスクにいた子ネコ達。
サラエヴォ寸景。
「1984年冬季オリンピック・サラエヴォ大会」の聖火。社会主義国で初めての冬季オリンピックでした。が、8年後に内戦となりました。ちなみに1980年はモスクワオリンピックでした。
子供の物乞いが多くいました。
「チェヴァプチチ」バルカン半島で広く食べられているファストフードの炭火焼き肉団子。ボスニア風は薄焼きパンに挟んで出されます。添えは生タマネギ。7€(810円)。ヨーグルトドリンク(アイリャン1€)が付きものです。物価の割りには高い気もしますが、店ははやっていました。
「サラエヴォ事件」1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇嗣夫妻が訪問中に暗殺され、これを機に第一次世界大戦が始まりました。学校で習ったのをかすかに覚えていましたが、その現場がサラエヴォだったのをあらためて知り、感慨深いものがありました。
暗殺現場近くのミラャツカ川に架かるラテン橋。
ラテン橋を渡ってすぐ右手のビルの前が現場です。今は博物館になっています。
犯人はボスニア党のセルビア人青年。
「スナイパー通り」ボスニア紛争時、サラエヴォは内戦状態でした。セルビア側に近い大通りを歩く子供を含むすべての人が、セルビア側の高層ビルから狙撃され多くの人が命を落としました。
「スナイパー通り」道路右側の歩道を歩いていると、写真に写っていない左手奥のビルから狙撃されました。
壁に弾痕が残っています。
「スナイパー通り」を歩いたあと、少しセルビア側に近いところを流れるミリャツカ川沿いに行ったら、凄まじい弾痕が残る家屋が並んでいました。この川が最前線だったと思われます。
ミリャツカ川。右手がセルビア側。
「オリンピック・スタジアムの墓地」スタジアムの補助グランドだった場所が内戦犠牲者の広大な墓地になっていました。メイン会場は手つかずのまま放置されている様な感じでした。
オリンピック記念塔。
奥にメイン会場があります。
次回(9/25予定)はモンテネグロ、アルバニア、コソヴォの予定です。
ありがとうございました。